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 地域連携が短期間にこんなに進むとは昨年(07年)は考えてもいなかった。とても書き切れない。
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 僕の父は、家計のために北海道から九州まで全国を巡業し、そこで出会った天才少年たちを自宅に連れてきて囲碁を勉強させていた。懐かしい日常だったが、ずいぶん変わった家庭環境だったのだなと、今になって思う。
 母は晩年、「木谷道場と70人の子どもたち」という本を書いた。「その本をおみやげに全国を行脚し、お世話になった方々にお礼を申し上げたい」と夢を語っていたと、長兄が書いている。
 平成3年6月3日に母はくも膜下出血で亡くなり、夢はかなわなかった。
 いつの頃か、僕も父の跡、母の夢を
たどって、全国を行脚したいと思うようになった。

耐震まちづくりと全国連携
 平塚耐震補強推進協議会が、NPO法人になった。
 新たな方針の一つが全国連携の推進。耐震補強は全国どこでも重要だが、なかなか進まない。そこで、平塚や墨田の耐震協議会、東京いのちのポータルサイトなどが連携し、「全国耐震まちづくりフォーラム」を各地域で開催したいと考えている。。
 第一回は2007年7月7日に、平塚七夕のメインステージで開催させていただく。第二回は10月下旬に長野県諏訪の富士見町での開催を検討している。

本当の地域活性化
  中心市街地活性化、過疎地域の活性化、経済活性化、組織活性化・・・。
 「活性化」とは何だろう?
  これまでは、結局は売り上げや所得、観光客など、データや目に見える光景の変化で活性化が語られてきたような気がする。「でも、本当は違うんじゃないか」という思いがずっとしている。少なくとも、過剰な消費レベルが引き起こした地球温暖化の解決と整合しない活性化は説得力がない理屈だ。
 「活性化とは、人が役割を持ち、活き活きと暮らすことだ」
、早稲田商店会長の安井潤一郎氏が、既に1997年に語っている。これは真理に近いと思っている。

沖縄津堅島
 沖縄津堅島は人口400人。高校がないから、中学を卒業すると本島に行き、戻らない。卒業の日に、卒業生全員と在校生代表が、手漕ぎの船で島を一周する。生み、育ててくれたこの島を網膜に焼き付ける。この話を陳さんから聞いて、僕はぐっときてしまった。なくなりかけた日本が、小さな島に残っていた。
 地域の資源とりわけ人間が活き、急ぎすぎず、広げすぎず、適度な外の風が入り、楽しさが人々の胸に満ち、消費レベルは低く満足度は高い・・・これが地球環境時代の活性化ではないかと、僕は考えている。それを若い友人やNPOの仲間とともにやってみたい。
 06年1月に初めて訪れ、11月に若い友人たちと再訪した。
 07年8月末の旧盆に訪れ、今年(08年)は12月か1月になりそうだ。

鞆・日本の心(2007年11月)
 07年8月10日〜12日、福山出身の向本さんに連れられて、「東京通信使」と銘打ったイベントを鞆の浦で開催した。
 明け方、堤防に腰をかけていたら、向本くんがやってきて、二人でおしゃべりをしていた。すると、対岸の仙酔島の山の窪みから太陽が昇った。表現しようのない美しさで、からだに届くものがあり、その夜、「鞆・日本の心」という名前とイベントのイメージがわいた。
 10月に事前の調整に鞆の浦と福山市役所に出かけ、11月23日〜25日に鞆・日本の心〜第三回全国耐震・まちづくりフォーラムを開催した。この内容は次に詳しく紹介されている。
「鞆・日本の心」http://www.geocities.jp/tomofriendsnet/index.htm


ともまち物語(2008年1月)
 11月イベントのあとも、たくさんの出来事が続いた。1月に、近江八幡と彦根で、鞆の浦の人々を含むメンバーで歴史的まちなみ保存の勉強会を開いた。金沢工業大学名誉教授の鈴木有先生、滋賀県立大学の柴田いづみ先生が対応して下さった。ファイアワークスの栗山宗大さんは若い映画人であり、11月イベントの記録映画を作ってくれた。これが「ともまち物語」。8分ほどだが、素晴らしい出来である。彦根イベントで早速に上映し、大好評を得た。
 彦根のあと、僕は鞆の浦に四度目の訪問をした。ここで、「朝鮮通信使饗応絵巻図」という奇妙な事件が起きた。
 話は少し前にさかのぼる。

「朝鮮通信使饗応絵巻図(1) 2007年10月18日
 2007年10月12日に二度目の鞆の浦訪問から帰宅すると、すぐ上の姉からFAXが届いていた。「筑波技術大学で視覚障がい者に囲碁を教えるイベントある。それに協力してあげてほしい」。姉の学生時代(東京教育大学特殊教育学科)の友人の吉野さんがそのイベントを企画されており、姉に協力を頼んで来たとのことだった。
 二つ返事でお引き受けし、18日に筑波に出かけた。筑波技術大学は学生全員が視覚障がい者あるいは聴覚障がい者という不思議な大学である。出会う学生、見かける学生全員が、目が見えず、あるいは手話で話をしている。僕がやろうとしていたことがこんなに熱心に、こんなに多数の人間で取り組まれていることが分かり、不思議に思い、嬉しくなった。
 ここで僕は、合田寅彦さんに10数年ぶりに再会をする。
 合田さんは昔、講談社で父の囲碁の本を編集して下さったことから知己の間柄で、その後、退職されて筑波で農業を始められ、「筑波山麓村暮らし」という本を書いておられた。
 この再会が不思議な出来事のきっかけになった。

「朝鮮通信使饗応絵巻図(2) 2007年10月19日
 翌日、合田さんが、「折角だから」と自宅にご招待してくださった。車で移動しているときに、つい、数日前まで鞆の浦に滞在していたこと、その前は彦根で朝鮮通信使のパレードがあり武官の衣装で参加したこと、11月には囲碁祭りを含む大きなイベントを鞆の浦でやることなどを話した。すると、合田さんの顔色が変わった。
 合田さんのご自宅は古い民家で、周りは畑。寄宿舎があり、全国から農に志す若者を集めて教育されている。
 奥様が夕食を用意して下さっていたのだが、合田さんは「正道さん、まずこれを見てほしい」と、別室から一つの巻物を出してこられた。長さ6メートルの美しい極彩色の絵巻物である。そして、この絵巻図が合田家になぜあるのかという、130年前の出来事を話してくれた。

「朝鮮通信使饗応絵巻図(3) 1868年−1869年
 話は140年前にさかのぼる。
 幕末、江戸城の無血開城を不服とした榎本武揚や土方歳三は、東北戦争に敗北後、北海道に向った。五稜郭を本拠地とする函館(箱館)が最後の決戦場である。
 合田さんの祖父は北海道・江差の豪商だった。あるとき、「お殿様」と呼ばれる方が合田家に本陣を構えた。使用人でなく家人が身の回りの世話をしたというから、特別な事情、特別な身分であったに違いない。
 彼はついに五稜郭には入らず、函館戦争が終結した。そして、江差を離れるときに、お礼にといって、小刀、弓の奥義書と共に合田家に預けていったものが、この絵巻であった。
 合田さんは、この絵巻図が何であり、どのような価値があるものかを国会図書館に尋ねたが、要領を得なかった。そして、絵巻はずっと筑波山麓の合田家の一室に眠り続けていたのである。
 それきり、僕もまた絵巻図のことは忘れてしまった。
 
「朝鮮通信使饗応絵巻図(4) 2008年1月
 2008年1月下旬に、僕は鞆の浦に四度目の訪問をし、最後に、鞆の浦民俗資料館に伺って学芸員の壇上さんにごあいさつをすることにした。そのときに、絵巻のことをふっと思い出した。案内して下さっていた北村さんにお話をしたところ、「それなら壇上さんに話すといい」ということで、お話をした。
 壇上さんの顔色が変わった。「もしかすると、全国的な価値があるものかもしれない」。
 3月の「鞆ひなまつり」で公開することを提案し、合田さんに電話をかけたところ快諾を得た。
 何かが動くときは、面白いものだ。

「朝鮮通信使饗応絵巻図(5) 2008年3月
 3月に、僕は鞆の浦に5度目の訪問をした。合田さんと従兄で歴史家の合田洋一さんも来られ、民俗資料館で記者会見をした。絵巻図は他の同様の資料の原本であり、極めて価値の高いものだった。日本で初めて鞆の浦で公開され、韓国の中央日報も含め、大量の報道がなされた。
http://mytown.asahi.com/hiroshima/news.php?k_id=35000250803040001

 九州・小倉藩の小笠原家から北海道・江差、そして茨城県筑波、そして鞆の浦へ・・・数奇な運命をたどった絵巻図が、今の時代にいかなる意味を持つのだろうか。
 直観であるが、日本のまちと文化(心)の立て直しにとどまらず、日韓関係を含む21世紀の国際関係に大きな影響を与えると思われる。なぜ、どのようにして、そしてどうなる? これは、しばらくお預けにさせてほしい。 (08年6月20日 記)
沖縄津堅島訪問 2008年9月