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 僕は1947年生まれだが、「団塊の世代」と一くくりに呼ばれるのが嫌だった。ところが、そういう考え方をするのが団塊の世代の特徴だという(笑)。
 北鎌倉湧水ネットワークの野口さんは団塊サミットを提唱したのだが、05年11月の第二回団塊サミットで基調講演の代役で呼ばれた。そこで、岐阜県の揖斐に出かけた。これが、僕と「団塊」との初めてのかかわりだった。

第二回団塊サミット(2005.11 岐阜県揖斐)
 揖斐の団塊サミットには、200人ぐらいの参加者があった。遠方からバスで来た方々もいる。第二部のコンサートになると、皆が歌いだす。正直、僕の好きな歌もあれば、なじめない歌もある。
 やがて、団塊関連の話が身近に増えた。典型的な会社人間(役所人間)だった僕が、おずおずと地域にかかわりだして、やがて深くつながりを持ったというところが面白いらしい。
 こうなったら、好きも嫌いもない。

「団塊の心の唄、地域に響け」(2006.8.27 NHKラジオ夕刊」
 2006年4月に、新宿文化センターで初めてコンサートを行い、それがきっかけで新聞に記事が載ったのが8月5日。それを見たNHKの飯野ディレクターから電話があった。「ラジオに出てほしい」と。話と唄の両方だと言う。
 8月28日、「毒食わば皿まで」の心境でスタディオに向かった。20分余の長いトークの合間に、涙そうそうと故郷の二曲を唄った。あとから聞いてみたら、楽しそうに喋っていた。この放送を聞いてくれた方々が地元にもたくさんいた。

第三回団塊サミット(2006.12.2〜3 神奈川県秦野市)
 第三回サミットは、NPO自然塾丹沢ドン会が受けて秦野で開催された。秦野は平塚の北隣りだが、ほとんど行ったことがない。今回は分科会のコーディネータを含めて、深くかかわった。
 基調講演の残間里江子さんは同世代だ。「陶芸男、蕎麦打ち男では駄目だ」と、さわやかに厳しい意見を言われた。分科会では、ひなたぼっこの大見さん、地域住環境の福井さん、足立あかしあ園の横内さんなどに応援をいただいた。
 この世代がどんなふうに社会に向かい合うのかは、この国の将来に大きな影響を与えると今では思っている。
●「新しいシニア像を示そう/団塊サミット in 丹沢」東京新聞(06.12.10)

「起承転々」(2007.1.8 足立区盛人式で)
 作家の童門冬二さんは、本名を太田久行さんといい、かつての僕の上司である。美濃部都政の最終盤、僕が20代後半のときに太田さんが局長だった。「小説上杉鷹山」がきっかけで、横浜市の改革派職員グループ「火種の会」が生まれ、僕はこのメンバーに、ほうぼうで応援をしてもらっている。童門さんと昨年12月に再会し、火種の会のメンバーもご一緒させていただいた。
 足立区の「盛人式」は団塊世代向けのイベントで、童門さんが基調講演をされた。「お前たちは起承転結など考えるな。起承転々で行くんだよ」と言ってくれた。これは良い言葉だと、元気が出た。

団塊探偵団 (2007.1〜 神奈川新聞)
 丹沢ドン会の片桐さん、北鎌倉湧水ネットワークの野口さん、僕の「団塊三人組」が「市民編集長」になり、いろいろな方々の活躍を紙面で紹介することになった。かつての「少年探偵団」は今や「団塊探偵団」というわけである。
 たくさんの友人がいるので良い機会になった。取材すると、これまでに知らなかった体験が出てくる。今更ながら、大変な困難を背負いながら、でも元気に楽しく生きておられる方々がおられることに気がつく。幸せとは何だろう、不幸とは何だろうと考える。元気が出るから、ぜひ読んでください。

戸山高校還暦祝い同期会(07年11月17日)
 団塊世代が還暦になることを記念して、戸山高校の同期会が開かれた。たくさんの人間が集まり、話をしたり唄を歌ったりした。昔と変わらない人間もいれば、ずいぶん変わった人間もいた。僕は、芸人の一人として唄を歌った。
 「団塊の世代がこれから何をやるか?」が話題になる。いろいろな考えがあって良いと思う。僕の場合には、「やり残したものがある」というよりも、これまでの人生でなしたことが結局、何だったのかがまるで分からないので、これから、社会にかかわりながら、自分にできることを自分のフィールドでやっていこうと思っている。九州大学農学部で農園長をしている中司敬君と隣り合わせになり、妙に話がはずんだ。彼とは、半年後に銀座吉水で再会することになる。高校の同期会というのは、団塊世代の活動の一つの場として、面白いかもしれない。 

戸山の同期会に音楽部会ができた(08年3月9日)
 07年8月に九段会館で行った「心の唄〜共に生きる」に高校の同期生がたくさん来てくれた。ありがたいことだ。昔、ピアノや歌をやっていたという人もたくさんいた。その中の一人に、「絶対続けるといいよ」といったら、音楽部設立のお誘いが回って来た。3月9日に、渋谷で初の発表会が開催された。ピアノやギター、歌など、みんなうまいので感心した。僕は涙そうそう、島唄、アメージンググレースを歌った。

高橋俊一君
 僕の音楽活動を応援してくれていた友人の一人が高橋俊一君だ。06年の秋に、那須に合宿したときからのつきあいだ。07年5月の退職記念退職記念コンサート、8月の九段会館にも来てくれて、嬉しい感想文を送ってくれた。共演した竹DSさん(創作ソロ手話唄)についての見事な評論になっていた。11月の鞆の浦イベントについても心配してくれていた。その彼が、08年3月に急死した。3月30日に偲ぶ会が開かれ、50人が集まった。僕は涙そうそうとアメージンググレースを歌った。お嬢さん二人と息子さんが参加された。次女の華子さんはヨーロッパで歌を勉強していて、見事なアベマリアを歌ってくれた。彼が家族を大事にしていたことが分かる偲ぶ会だった。