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物心がついた時から、家には碁の内弟子がいた。最大時に16人。小学校時代は日本棋院にも院生として通い、プロ棋士をめざしていた。。
中学一年のときに、父に手をついて「碁をやめさせてください」と頼んだ。「そうか」の一言で僕は碁をやめたのだが、あまりにあっけなかったので子どもながらに少々不満だった。父には、息子の才能の限界が見えていたのだろう。
「木谷道場と70人の子どもたち」という本を晩年の母が書いた。母にとっては、みんなが自分の子どもだったし、弟子も実の子どもも、母を「お母様」と呼んでいた。思い出がたくさんある。
平塚の囲碁道場 右端が僕
最初のお弟子さん
戦後、1950年に野村祐子さんが入門され、51年には戸沢昭宣さんと大竹英雄さんが相次いで入門をしてきた。僕が4歳のときである。
右側の写真の後が大竹英雄さんだ。九州の戸畑から、行李(こおり)いっぱいのメンコとビー玉と共にやってきた。夢のような宝物だった。
大竹さん(「英ちゃん」と呼んでいた) が学校に行っている間に、僕は近所の悪ガキとビー玉をやり、あらかた取られてしまう。英ちゃんは帰ってくるなり、全部を取り返す。すごい。
この後、内弟子の数は増え、32年には上村さん、石田さんなど4人、34年には加藤さん、佐藤さんなど3人が入門し、あっという間に
、我が家は内弟子と実の家族をあわせて30人の大家族になってしまった。
原風景
「故郷」の唄を唄うと、この頃の思い出がよみがえり、熱いものがこみ上げてくる。
あの頃は、みんな元気で、楽しかった。
春には花水川の土手につくしを取りに行き、秋には、田んぼにいなごを取りに行った。
家族みんなで、休日の一日を自然の中で過ごす。昼になると、おにぎりとお稲荷さんをみんなで食べる。消費レベルは低かったけれど、この楽しさ、幸せ感は何なのだろうか。自分の子どもたちには、こうした楽しさを与えないままに大きくなってしまった気がする。
この写真は、僕の心の原風景である。
子どもの集団
子ども同士が一緒に集まっているだけで、楽しいものだ。
家にはたくさんの弟子がいたから、ソフトボールのチームが二つできた。毎日のように、学校から帰ると近所の公園でソフトをやった。夕方帰ってきて食事をし、それから寝るまで碁の勉強である。
僕は実の家族と離れて、長屋で内弟子たちと共同生活をしていた。
右の写真の前列中央が羽田晋一さんである。僕よりも小さなお弟子さんだったから、ずいぶんいじめたらしい。それにしても、みんな楽しそうだ。
最近の子どもは、子ども同士で遊ぶ機会が少ない。地域がばらばらになり、家族が孤立し、家族同士が孤立している。どうしたらよいのだろうか。
四谷の囲碁道場
中学二年のときに、家族は東京・四谷に居を移し、1961年、中学三年から僕も四谷に移った。東京は何もかもが新しかった。僕は碁をやめていたが、加藤正夫さん、佐藤昌晴さん、春山勇さん、石田芳夫さんなどとは、年齢が近かったので兄弟のようなつきあいをしていた。
僕が高校三年の時、大代まき子さん、小川誠子さん、井上真知子さんが相次いで入門してきた。道場はひととき、はなやかな雰囲気になった。
高校から大学、そして都庁に入ってしばらくの間、四谷にいた。
友人たちとよく遊んだ。四谷が僕の青春時代である。
四谷から平塚へ
1974年頃、父の容体が
悪化したので四谷から平塚に戻った。
75年10月に僕は結婚し、12月に父が亡くなった。
78年に長男が生まれ、81年には次男が生まれた。
僕は仕事人間になり、組織に適応しようと一所懸命だった。仕事は楽しく、住民や自治を語ったり書いたりしていた。しかし、自分は地域に関わりを持たず、知人もおらず、典型的な会社人間(役所人間)だった。
長い時間が過ぎ、1993年4月に、小学校時代の決闘相手の山口伸から電話がかかってきた。この電話が大袈裟に言うと僕の人生を変えた。
地域とのかかわり
山口は、「俺たちはもう少し地元に関心を持たなくてはいけないんじゃないか」と僕に説教した。僕は、「お前にだけはそういうことを言われたくない」と思ったが、彼の意見は正しかったから、僕は抵抗できなかった。
おずおずと地域にかかわりを持ち始め、やがて、市民活動メンバーと勉強会が始まり、ひなたぼっこで唄を唄うようになり、NPOをみんなでつくり、防災・耐震補強の活動・・・と地域へのかかわりが増えた。
囲碁の普及活動
ずっと、自分と碁は関係ないと思い、意識的にさわらなかった。
最近、碁の普及を始めた。沖縄・津堅島、土屋の寺子屋、進和学園・・・。授産施設と耐震協議会が連携する小碁盤の製作・普及事業も始まった。
このまま碁界が衰退するなら、たくさんの弟子を育てた僕の両親は何をやったのか分からない。僕は碁は強くないが教え方は結構うまい。碁は高齢社会を乗り切る切札だから、教えてあげれば皆に喜んでもらえると思う。
彼岸で父に再会した時に、「お前も少しはやるじゃないか」と褒めてもらいたいものだと、半ば本気で思っている。
囲碁の修行再び(2009.7)
何やかや、囲碁に触れる機会が増えた。時折は指導もする。問題は僕の棋力だ。若いころに、加藤正夫さんや石田芳夫さんと一緒に修行したとはいえ、後は好きじゃなかったので、本気になって勉強した記憶がない。都庁に入りたての頃、二度ほど大会で優勝したが、僕の名前に負けてくれたような気がする。いつかもう一度修行したいと思っていたが、なかなか機会がなかった。
6月に日高敏之さんが平塚に来て話をしていたら、「市の仕事で平塚に来る機会があるので、指導しましょうか」と。願ったりかなったりで、お願いをする。
7月7日に、早速、その機会が来た。久しぶりのプロと対局で血が騒いだ。聞けば、26年ほど前に、平塚で僕を打ってくれたとのこと。三目置いて勝とうとしたら、見事に負けた。残念! 次はがんばるぞ。